たりないわたし
何者かになりたいと思ったことはない。
自分にしかできないことなんてないと思っているし、生涯を賭けるに値するものだって持ち合わせていない。
自分の代わりは山ほどいる。
人並みに仕事はしているし、小さな部署のなか、もしかしたら一番担当業務は多いかもしれないけど、それは特別なスキルを持っているからではなくて、相応の年次になっているからだし、人手がないから。
うまくいくときもあるし、いかないときもあるけど、じゃあ辞めてやろうとか、新天地で一旗揚げてやろうとか、そんな気概も特にない。「あのひとはうまくやってるな、いいな」と思っても、その先がない。「あのひとみたいになりたい」とは思わない。
目の前のことを誠実にこなしていきたい、とは思っているけれど、目覚ましい成果を上げたいとは思っていない。
恋愛にも結婚にも興味がない。そういうものが人生の目標であり評価軸になっているひとのことが理解できないとは言わないけれど、自分がそうなれるかといえば、たぶんもうなれない。いつかそうなるかも、と思っていた時期もあったけれど。
身内がパートナーと同棲を始めた、なんて話を聞いても「へえ」で終わってしまう。だって関心がないのだもの。
大きな変化は望まない。毎日同じ生活でいい。
すごく快適かと言われればそうでもないし、洗練されているとも思わない。
だけど、「変わること/変えること」に必要なエネルギーを考えたら、当分は今のままでいい。
「興味がないふり」「向上心がないふり」「変わりたくないふり」ならまだよかった。
本当は出世したいけどガツガツするのはかっこ悪いと思ってるとか、結婚願望はあるけど婚活するのは恥ずかしいとか。
でも本当になくて。そういうのが。
転職だって引っ越しだって婚活だって、やろうと思えばいくらでも方法はあるのに、「このままでいいや」と思ってしまっていること自体が最大のコンプレックス。
自分に何も期待していなくて、周りからも期待されたいと思っていなくて、でも外面はいいから「一生懸命やってます」みたいな。いや、実際一生懸命やってはいるんだけど、仕事とか。でもそれは与えられた仕事を全うすることが一番楽だから、に他ならない。
自己肯定感とか自己評価とか、そういう話になるんだろうか。
何かを成し遂げたひとや、成し遂げようとするひと。
自分に欠けているものと対峙して、そこを埋めようとするひと。
「仕事で評価されたい」「名声を得たい」「結婚したい」……明確な願望があって、それを口に出して、そのために何かできるひと。行動して、表現できるひと。
それは身近なひとだけではなくて、すきなアーティストだったりとか、そういう存在も含めて、焦燥感や向上心みたいなものをきちんと表に出すひとがあまりにも眩しくて、うらやましくて、心臓が痛くなってしまう。
焦燥感がないことに焦り、渇望感がないことに絶望してしまう。
そしてたぶん、そんなコンプレックスがあること自体、表出できていないし、なんとなくまともに、普通に、ちゃんと生きているように振舞える自分が、とてもいや。
「たりない」なんてタイトルにしたけれど、これは失礼だな。
だって、たりないふたりや彼らに感化されたひとたちは、たりようとしてもがいたり、別の道を見出したり、たりないこと自体をオリジナリティとして捉えられるようになったり、たりるようになって新たなフェーズに進んだ自分たちを表現したりしているのに。
わたしは自分が「たりない」ことを自覚して、いやだな、と思っているのに、何もしていないし、それでいいやとあきらめている。たりないことを標榜する資格もない。
情熱大陸そのまえに
ほんとのほんとに備忘録。
情熱大陸見たあと自分がどんな感情でいるか分からないから、現時点の自分のこととここまでの経過を書き残しておく。
忘れたくない感情も、ちょっとした思い出も、できれば整理して形に残しておきたい、と思う性癖。
8月30日。
恒例になりつつある友人宅でのDVD鑑賞会に出向く。
自分としてはあまり馴染みのない「海の近くの家」なので、早めに出て海岸を散歩。
無音でいるのもなんだか、(というか特にコロナ禍において、無音がとても苦手になってしまった。思想が潜り過ぎるので)と思って、延々ラジオを聞く。
「MIU404」に激ハマりした影響で「星野源のオールナイトニッポン」を聞き始めていたので、そのままの流れで「Creepy Nutsのオールナイトニッポン0」にも手を出してみた。
これが本当に運命の出会いでした。
流れてきたのは、名前だけなんとなく聞いたことがある、ヒップホップユニットの声。
「たりないふたり」とかを聞いたことがあったのかな、たぶん。見てたし。
正直そこまでヒップホップに興味もなくて、だからほんとに暇つぶしの感覚だったのに、この一回で見事に落ちた。
ファッションや食べ物や自分たちの年齢感に対する自意識だったり劣等感だったりを、あまりにも愉快に明け透けに楽しげに語ってくれるものだから、某海岸公園を歩きながらマスクの下でゲラゲラ笑った。
未だに忘れられない、Rさんの「俺を置いとかんといてくれよ」というキラーワード。
芸人さんだって、こんな完璧なタイミングで完璧なワードを放り込めるか?って唖然とするぐらい、完璧な展開だった。
かと思えば、どうやら彼らに大きな影響を与えたらしい、オードリー若林さんに対する熱過ぎる思いを吐き出したり、めちゃくちゃかっこいい曲を流してくれたりするものだから、一体こいつらは何者なのだ、と。
その場で「かつて天才だった俺たちへ」をiTunesで買ったのでした。
そこからは本当に怒涛で、配信されている曲を全て買い、YouTubeでPVやらライブ映像をやらを見漁り、古いインタビューを読み漁り(これただの「阿婆擦れ」だなってあとで思った)、関連人物を掘りまくった(ラッパーの名前をたくさん覚えたし、ライムスターの何曲かはイントロで分かるようになったし、梅田サイファーのメンバーも覚えた)。
わたしが勝手にイメージしていたヒップホップとは全然違ったな。
聞き取りやすい発音、馴染みのある言葉選び、理屈はわからないけど聞いているだけで気持ちが良いリズム感や韻の踏み方。
心地良いのにどこか引っかかるメロディーやビート。
すぐに覚えて口ずさめるようになった。
2人のルックスがひとっつも厳つくなくて、怖くなくて、そこらへんにいる優しげなお兄ちゃんたち、っていうのもたぶん大きかった。
わたしの大好きな「オタク特有の早口だけどちゃんと聞き取れる話し方」とか、「こっち側置いてきぼりでとんでもないテンポで進むトーク」とか、そういうのも大事だったかな。
好きになる要素しかなかった。
好きになったタイミング、奇跡的だったと思う。
まだ「かつ天」のリリースライブのアーカイブが見られる期間内だった。
直後にOKAMOTO'Sとの配信ライブが見られた。
Mステに2回出て、バラエティのレギュラーが決まって、ドラマにも出てる。
松永さんのエッセイの連載が始まって、「サウンドクリエイターズファイル」で6時間がっつり来歴を語るのを聞けた。
今の彼らを追いかけながら、過去の彼らを掘り起こす作業をしていたら、あっという間の2ヶ月半だった。
唯一間に合わなかったな、って悔しかったのは、はじめての武道館ライブ。
当たり前だけどとっくにチケットは完売していて、どういう形でやるのかはわからないけど、絶対やる、って言葉を聞いて、生配信とかあるっぽいな、ほんとは生で見たかったけどな、でも公演には間に合ってよかった、って思っていたのに。
ひょんなことから現地チケットが取れてしまった。
二日目、見切れ席。
ついこないだ彼らを好きになったようなわたしが、見に行ってもいいのか?とも思うけど、でも、こんなこともう早々ないだろうし、次がいつになるかわかんないし。
で、訳の分からない精神状態で武道館に臨んだ。
ここまで書いて、情熱大陸始まっちゃった。
2か月半前に好きになった人たちの初武道館公演と情熱大陸をリアルタイムで見られるなんて、こんな僥倖ある?
武道館の感想はまたちゃんと書こうと思うけど。
情熱大陸、ぜんぜん悲しくなくてギスギスもしてなくてよかったな。
べそべそ松永さんはいなかったけど。
選べなかったんじゃなくて選ばなかった青春のこと
ずっと気になっていた「氷菓」というアニメを一気見。
普段アニメを完走できることがあまり多くない(思い返してみたけどぱっと思いつくもの10作もないかもしれない)けど、これは凄かった。
丸一日かけて2クール分全部見た。
ちなみに原作は1作目だけ読んでいて(たぶん)、アニメの絵柄から想像していたのとはだいぶ違う、淡々とした語り口にびっくりした記憶がある。
勉強とか部活とか友達とか恋愛とか家族とか、えるちゃんの場合は土地とのつながりとか、そういういろんな要素が淡い色で塗り重ねられたみたいな作品だった。
タイミングやひとによって色味に濃淡があって、体重の掛け方が違って、でも混ざり合っているから単色で抽出することはできなくて、そういう時代なんだろう、青春って。
なんだかいろんなところが痛くなって切なくなって、でも観るのをやめることができなかった。
なんでかなぁ。
先はもちろん気になったけど、彼らと自分の共通点をひとつぐらい見つけたかったのかもしれない。
見つからなかったけど。
ただ、福ちゃんこと福部くんの言葉には共感してしまったな。
「こだわる自分でいたくない。こだわらないことにこだわりたい」っていう、最終話直前のあの台詞。
めちゃくちゃわかる。
なにかに執着して自分が自分でなくなるのも、大切にしていたものを失って前後不覚になるのも怖い。
ついでに言うなら、大切だったはずのものを失っても平然としているかもしれない自分もとてもいや。
ならば最初から、何にもこだわらない、どこにも重心を置かずに(だから福ちゃんはあんなに部活やら委員会やら掛け持ちしているのかしら)生きていく方がよほど楽、と思ってしまっていたし、たぶんいまも思っている。
独占したくない、されたくない、も自由がどうとかじゃなくて、いろんなものを背負うのが怖いだけなんだよな、実は。
それでもどうやら「だれか」にこだわることにしたらしい福ちゃん、素直にかっこいいと思ってしまった。
奉太郎は無気力で省エネを気取っているけど、実は情の人だよなぁ。
面倒だから、これ以上長引かせたくないから、が行動原理のようだけど、ならば最初から何もしなければいいのに。
「面倒だから」のまえに「誰かが悲しんだら、苦しんだら、怒ったら」が絶対につく人だ。
変な正義を振りかざすよりもよっぽど誠実。
頭の回転が早すぎてときに残酷に見えるところに、年相応の幼さが見え隠れして、そこもまた愛おしい。
えると摩耶花はとてもとても眩しかったなぁ。
(たいていの場合は)素直に好奇心や喜びや怒りを表出できるところ、本当に素敵。
あれができるのはちゃんと受け止めて、もしくは受け流してくれる人がいるからで、それは彼女たちがいつも誠実に生きているからで、そこに存在する確固たる信頼関係がわたしはとても羨ましくなってしまった。
羨ましいんだな、心から。
運動部に所属して華々しい活躍をしたかったわけでもないし、容姿端麗な学園のマドンナになりたかったわけでもないし、引く手数多の頭脳を持ち合わせたかったわけでもないけど、自分の居場所はほしかった。
そこにいけば気心知れただれかがいて、別にいかなくてもいいんだけど、それなりに気にはされて。
何かやってみよう、というときには自然に集まって、だけど集まらなくても特に気にしなくて。
ある程度遠慮なくコミュニケーションが取れて、でも心地の良い距離感を(最終回に近づくにつれて、それは壊れつつ、もしくは新しく生まれつつあったけど)保つことができて。
いずれその場所がじぶんたちのものではなくなっても、場所を変えて顔を合わせることができると無邪気に信じられるような、そういう居場所がほしかった。
忙しい習い事もしていたし、家の方針もあったし、そういう生活をしてみたい、と思ったこともないような、興味のないような振りをしていたんだろうな、当時の自分は。
いまの自分がこういうスタンスで生きているのは、その頃染み付いた性質みたいなものなのか、それともそれが素になってしまったのかは今となってはわからないけど。
選ぼうとしてがむしゃらに行動することも、選ぼうとしていることを表明することもできたはずなのに、そもそもしなかった。
面倒だったのか、自信がなかったのか、プライドなのか。
ぜんぶかな、という気もする。
あとになって何の役に立つのかわからない、そんな時間を無為にすごしたり、その場所その瞬間が世界の中心で全てだと思ったり、かっこ悪くてもいいから全力疾走しているような、そんな青春を送ってみればよかったなぁ、と今になって思ってしまった。
「青春は、やさしいだけじゃない。
痛い、だけでもない」
どちらもなるべく感じないようにしないまま、あたかもそれが正しいかのように振る舞っていた、そんな毎日は、いったいどのくらいいまの自分に影響を与えているんだろう。
今日の仕事場は飛行機がよく見えた
いまの仕事に就いて、長くもなければ短くもないと思う。
本当はひとりだちしなきゃいけないんだろうけど、わたしの経験値ではまだ相当しんどい案件があって、上司についてきてもらっている。
今日はそれがひと段落ついたので、帰り道に「次からひとりでできる?」って聞かれた。
たぶんこの「ひとりでできる」は案件に対して適切な対応ができるかどうか、ニーズに合った仕事ができるかどうか、ではなくて、この案件のこれまでの積み重ねも含めて、わたしが受け止めていけるかどうか、という意味なのだろうなーと思って、そうやって聞いたら大正解だった。
そういうわたしより経験を積んだひとの気遣いがあって、まだここに踏みとどまっていられるのだと思った。
お昼を食べてなかったので、最寄駅のカフェで甘いものを食べた。
窓からは飛行機がすごく大きく見えた。
空港で飛行機を見るのが好きだ、という話でひと盛り上がりした。
まだどこにも行けないけど、飛行機見に行くのはいいのかな。
だめかな。
忙しくなっても考え込むことはする。
普通に忙しくなった。
電車混んでる。
コンビニも混んでる。
デパートも割と混んでる。
日々の忙しさのなかで、不安や恐怖がマーブル模様に溶け込んでいて、濃淡にむらがあるのでふとした瞬間に濃い部分にあたると一瞬息がしづらくなる。
とか言ってても、仕事はあるので毎日電車に乗るのですが。
全部に否定的に(批判的に、とはまた違うのかな)なろうと思えばそれはもうびっくりするぐらい簡単なことで、とはいえ愚痴を言う相手もいなければエネルギーもないので、言わないだけ。
みんなそうなんだろうし。
ひととき心を預けられるものが欲しくて、それにはどうやら「いつでも触れ合えるもの」じゃだめみたいで、ここ最近だと宝塚のライブ配信が抜群によかった。
いまこの公演が、同じ空の下で(なんて陳腐な表現!)行われているんだ、というだけでボロボロ涙が出てしまった。
もともと贔屓にしている組の公演ではなかったのだけど、それでもとてつもないパワーで、力づくに救われた気がした。
清く美しいものはいっそ暴力的なまでに強い。
睡眠時間が明らかに短くなっている。
わたしのメンターに「みんなギリギリで疲れてるけど、あなたがいちばん」と言われてしまった。
へこむ。
これはほんとに絶対よくないことですよねー……。
淡々とこなさないといけない作業も、心をすり減らして向き合わなきゃいけない仕事も、締め切りとにらめっこしなきゃいけない時間とがあって、さて、という感じ。
仕事の切り分け方がわからなくて、結果自分で抱え込んでる感もあり。
「あなた以外のひとが自分の仕事について相談しているのを聞くでもなく聞いていて、『ああわたしもこれが出来ていない』『あれをやらなくちゃいけないんだった』みたいなことを考えて、見えないところでひとつひとつきちんと落ち込んでいるんでしょ」と言われた。
ご名答。
図星すぎて笑うしかなかった。
ここまで見抜かれていたら誤魔化す気も起きない。
最近読んだ本をきっかけに、「安心」と「信頼」の違いについて考えることが多くて。
結論として、わたしはわたしを全然信頼していない。
自己肯定感とはまたちょっと違うのかな。
自分のやること、考えること、選ぶこと、全然信じていないんだよな。
だからこそ、わたしが憧れているひとたちはとてもストイック。
胸を張って、「あなたたちを信じています」と言えてしまう。
自分のことは信じていないけど、自分の好きな人のことは信じてます。
それが救いだな、たぶん。
「我慢の四連休」だって。
もう4か月ぐらい、ずっと我慢しっぱなしですけど?
普通の祝日
でした。
別になんてことない、ただ予定ないだけの祝日なのにね。
こんな日々が続くと、なんだか非日常のようです。
昼前に起きて、少し前に買ったキャンプ用の椅子を出しました。
ベランダに椅子を置いて、借りてる漫画を読みました。
14巻まで読了。
続き、また借りてこなくちゃ。
連載始まったのは30年近く前で、まだ完結してなくて。
終わるまでちゃんと追いかけたいなぁ。
今のところクラピカが好きです。
あとレオリオね。
お気づきの通り超タイプ。
軽薄そうなのに実は結構硬派で誠実、みたいな人が好きです。
やっぱり宅間孝行みあるなぁ。
あと、kindleUnlimitedで昔読んだ本読み直したり、アマプラで映画見たり。
お茶飲んでお菓子食べてご飯食べて家事して。
大人だけで住んでるから成り立っているんだろうなぁ。
往復3時間かけて仕事に行って、仕事終わりや休みの日は習い事とか趣味にかまけて。
家に帰るのは寝るため、みたいな生活を送っていて。
やろうと思えば今みたいな生活だってできるんだなって、知ってしまった。
じゃあなんであんなあわただしい生活送っていたんだろうって考えたんだけど。
もちろんそれが楽しくて、人生に欠かせないものだったからなんだけど。
それだけじゃなくて、いろんなことから目を逸らしたかったんだなって、少しだけ悲しくなった。
仕事以外は子供の頃とたいして変わらない生活をしていることとか。
思考回路が全然成長していないこととか。
いつまでも甘えたで、自分のこと全然決められないこととか。
好き嫌いなんて全然ないようで、実はひととのかかわりをすごく怖がっていることとか。
ばたばたと何かをしていれば、そういう不都合なことには目を逸らしたまま、どんどん時間は過ぎていくし、充実しているような錯覚に陥ってしまえるのですね。
いや、実際のところ充実はしてたんだけどさ。
なんかそんなことに目を向けて、内向的にならざるを得ない時間なのかもしれません。